月を駆ける血管

挑戦的懐疑主義。

表現すること

表現する、ってことは、自分を相対化することだと思うんだ。

相対化はつまり、自分と何かを比べられる、ってこと。

比べられる対象として”私”という「こと」を考える。それが表現するってことだと思ってる。

 

 

例えを出すなら言葉だと分かりやすいね。

テーブルの上にリンゴがある。

 

言葉のない世界だったら、リンゴもテーブルも周囲の環境と区切りなくつながって認識される。

そもそも、認識してるかどうかもあやしいよ。”自分”が”自然”と分離されていない訳だから、周囲の動きも自分の動きも大して変わりない。ある意味自然との一体化だけど、”自分”が消失してるんだから、死んでるのと同じだよね?つーか虫と同レベルだね。

 

言葉のある世界だったら、テーブルとリンゴを相対化して比べることができる。テーブルはリンゴを載せていて、そのリンゴは赤い色をしていてテーブルは茶色いってね。

その上で、”自分”っていう「モノ」を相対化できるようにもなる。この頭はテーブルより固いかも知れないとか、この歯はリンゴを噛めるかもしれないとか、手刀でリンゴを一文字切りできるかもとか。

 

そこまできたら”自分”って「コト」も相対化できる。

テーブルはリンゴを支えて、リンゴはテーブルに100%頼ってる…私もそんな風に誰かと100%の信頼関係を作れてるかとか、テーブルはどこをとっても同じ材質でできてる…私の言動はどれをとっても同じ思いからきたものになってるか、リンゴは中央ほどみずみずしくて甘い…私の心の真ん中には、ちゃんとうるおった泉が湧き出ているのだろうか、とか。

そうやって、”自分”を何かと比べて、その姿を確かめてみることが、表現することなんだと思う。

 

「そんな他と比べてたら、自分が何なのか分かんなくなっちゃうじゃん」

って意見も分からなくないよ。

でも、それって結局、”自分”は絶対なんだ!と無駄に信じてるからなんだと私は思うんだよね。

だって、”自分”を説明するとき、”自分”以外のどんな「コト」も使わずに説明できる?

 

多分そんなことは誰にもできないはずだ。つまりね、”自分”って何かを知るためには、何かと比べていく、つまり表現していくことしか方法がないんだよ。

 

そういう考えで、表現の一つのやり方として、書きたいことだけ書くよ。

以上、おなかすいてきたアサキでした。